レッスン51 をご覧ください。このレッスンの意味が、復習のところに記されています。

一巡目のレッスンでは、復習を行なう日に新鮮さが感じられなかったかもしれません。でも、2巡目に入ると、初出のレッスンの“謎”が、復習で解き明かされているというふうに感じられるようになっているのではと思います。なるほど、こういう意味だったのか、と。

このレッスンの復習を見てみましょう。

なぜ見ているものに意味がないかというと、
たった今、自分が、ビジョンの代わりに、これらを、あれこれを、形あるものを、区別できるものを、見ているからです。

さらには、わたしたちは、それらにすっかりとらわれていて、それらにこそ意味があると思いこんでいるからです。

いつもの部屋で、同じものを見わたすことを繰り返しても、気づきにくいかもしれません。お財布から、一万円札(あれば)、五千円札、二千円札(あれば)、千円札、五百円玉、百円玉、十円玉、五円玉、一円玉を出して並べて、「このお金は、どれも、等しく、意味がありません」と言ってみましょう。一円玉はともかく、一万円あれば、いくつものことができる、と考えてしまいませんか。一万円が、何の役に立つと思いますか。コンサートの切符、大好きな人とのレストランでの食事、とっておきのワインを一本、一週間分の食費、光熱費にあてる、洋服を買う、指輪をプレゼントする、、、一万円には、意味が大いにあるどころか、限りなくとは言わないまでも、かなり選択の幅の広いもの、つまり、自由を運んできてくれるように思っているわけです。

一円玉にも意味をつけているでしょう。「これを増やさないように利口に使いたい」というプレッシャーに近い思いを持つこともあるかもしれません。スーパーのレジで、“端数”によって、一円玉を増やしてしまうかすっきり使ってしまえるかは、腕の見せどころです。準備周到にしておきたいところです。「売り手にとって、釣り銭は大事。できるだけ協力してあげたい」と、やさしい気遣いを持つならなおのこと、お財布のなかの一円玉の数は気になるかもしれません。

そこで、「わたしが見ている、この一万円札には、何の意味もありません」。「この一万円札は、何の役にも立ちません」。

「わたしが見ている、この一円玉には、何の意味もありません」。「この一円玉は、何の役にも立ちません」。

と、言ってみましょう。そして、心に起こる思いを観察しましょう。「たかが一万円では心動かない」という方は、動くまで金額を増やしてみてはどうでしょう。百万円とか。一億円とか。十億円とか。

・・・意味を見ています。執着しています。追いかけています。一万円には、意味がないどころではありません。自由、豊かさ、喜び、愛の分かち合い、自分自身の価値、、、「しあわせは、この一万円札にある」とまで思っているかもしれません。

「わたしが見ている、この一円玉には、何の意味もありません」。「この一円玉は、何の役にも立ちません」。

今度は、そのように言ってみましょう。一万円札という紙切れだけではなく、一円玉という小さなコインにも、たくさんの思いを被せていることに気づきます。
一万円札と一円玉にどれほど多くの思いをこめているかに気づいたら、今度は、まわりを見わたしてみましょう。小さなもの、どうでもよさそうなものも含めて、ひとつひとつのモノに、大きな、幾重にもなった思いを持っていることに驚いてしまいませんか。

次に、ゴミ箱や、高価でないボールペンや、新聞紙や、捨て忘れている古雑誌などを眺めてみてください。それらを「どうでもいいもの」「大事でないもの」「メモするときになくてはならないもの」「便利なもの」等々の意味づけをして見ていることを確認しましょう。

どうでもいいものはひとつもない、と言う方、断捨離をしたので無駄なものはない、と言う方は、その「無駄ではない、選りすぐったもののそれぞれ」に、自分がどんな意味を与えているか、観察してみましょう。

今まで観察してきたものの数々に、どれほどの思いを投影しているか、理解し始めていますね。わたしたちは、それほどにも大きな思いをあふれさせて、そしてそれをあまり感じないように抑えながら、しかもなんとかして、自分が「思っていたいこと」を「もっとしっかり持ちたい」と願っているのかもしれませんね。「ギターの練習にもっと打ち込みたいのに」とか「神の思いだけに心を向けていたいのに」とか「一日中祈り続けたいのに」とか。

一万円札も、一円玉も、今座っている古い椅子も、あふれる思いをとりあえず着地させるために自分で作り出した、手頃で利用価値の高いイメージに過ぎないのかもしれません。

そして、思いを、多種多様のイメージに摺り替えてしまうことで、思いの源を忘れているのかもしれません。逆に言うなら、思いの源を忘れるために、イメージを作り続け、意味を与え続けているのかもしれません。

自分にとって利用価値の高いものにはどんなものがありますか。再度、思いを巡らせてみましょう。もちろん、誰にとっても、自分の身体、大事な人の身体、ということがあるでしょう。

  この手には、何の意味もありません。
  この足には、何の意味もありません。
  あの身体には、何の意味もありません。

自分の手足やそこに見える身体が、あのゴミ箱や、その古い鏡と同様に意味がない、ということをコースは教えています。「自分の身体とあのゴミ箱が同じように意味がない? 価値がない? とんでもない!」と思ってしまいますね。ここで、わたしたちが、コースの教えとまったく正反対の“人生”を作っている、送っていることに気づかないわけにはいきません。どれほど真実に対抗しているかを認めざるを得ません。

<質問> それほど、わたしたちは、自己の真実を忘れたかったのでしょうか。こんなに真実からかけ離れた思いにとらわれているのは、なぜだったのでしょう?