このレッスンも、1と同様、二回目以降は、同じ部屋のなかで繰り返すよりも、職場で、路上で、電車やバスのなかで、さまざまな場所でやってみると、より一層、理解が深まるかもしれません。
わたしたちは、見ているものが自分に影響を与えるのではなく、自分の思いが、ものを作り出しているということを受け入れていくレッスンをしているところです。
レッスン中にあるように、身体、ボタン、蠅、床、林檎、腕、等々を見わたしながら、周囲の人々にも視線を向けてみます。または、そうしている間にも心をよぎる人に、心の目を向けてみます。「わたしは、この人に(この人の言動に)(この人の仕事ぶりに)わたしにとっての意味を与えています」と言います。それが“良い”と判断しているものであれ、”良くない”と判断しているものであれ、「それはわたしにとっての意味なのだ」ということを自分に言ってきかせます。
源からやってくる思いを、ねじ曲げ、いくつもに分裂、増殖させたものが、さまざまな「わたしにとっての意味」です。“わたしを守ってくれる人”、“わたしの立場を脅かす人”、“わたしに同意してくれる人”、“わたしをよくは思っていない人”、“わたしを批判している人”、“わたしを好きでいてくれている人”、、、きりがありませんね。
このひとつひとつが、自分がこしらえた、愛の代償としての思いなのだということを、観察していきます。
エゴは、見るものすべてに、「こうであってほしい」意味を与えています。執着できる対象、嫌うことのできる対象、劣等感を抱ける対象、優越感を抱ける対象、自分は非力だと感じられる対象、自分が犠牲者だと証明できる対象、その他いろいろ。
そのうち、「こうして自分で限りない思いをこしらえて、自分を疲れさせているのか」「それどころか自分を痛めつけているのだな」ということが見えてくるでしょう。さらには、「でも、わたしの人生は、それらの数々の思いの増殖のみで成り立っている」「だから思いにしがみつきたい、思いを手放すわけにはいかない。手放すことと死ぬことは同じだ」というようなさらなる思いがわき上がるのを感じるかもしれません。
“増殖”を、豊かさと勘違いしていることが、いずれはっきりしてきます。
ところで、このレッスンのコメント部分に、次のような箇所が出てきます。
目につくものすべてに行なおうとしないでください。そうでないと、うんざりしてしまうでしょう。(1)
ただ楽に、平等に、素早く、周囲の物を見ていきます。
すべてを等しく、楽に見るように努めてください。
ゆったりとくつろいだ気持ちでいることが何より大事です。(2)
ごく短いふたつの段落のなかに、「楽にやりなさい」ということが、繰り返し出てきます。これは、今後のレッスンすべてに当てはまる、とても大事なことで、また、時に、むずかしく感じられることでもあります。レッスンを「やらなきゃ」と思ってやるのではなく、楽な、自由な気持ちで取り組むという感覚を身につけなさいと言うことです。
練習が要りますね。抵抗が強いときに、無理矢理行なう代わりに、抵抗が通り過ぎるのを待って、平穏な気持ちで取り組む、というやり方ができるようになることがまずは目標でしょうか。ご自分にとって、「楽にくつろいで日常的に行なっている」ことに、どんなものがありますか? それらと同じ気持ちでレッスンができますか?
最後にもうひとつ、質問です。エゴは、愛の代償として、「自分にとっての意味」をすべてのものに与えている、それはつまり、真の意味を与えていないのと同じことです。
<質問> この世で、愛の意味とは、そして愛の思いとは、ゆるし、以外にはないのですが(それがコースの教えです。幸福への唯一の道です)、それはどういうことでしょうか。理解できますか?
レッスン1の意味がないというのは難しかったけど、わたしが意味を与えているというこのレッスンの方がそうだなと思います。間違いなく意味を与えている実感があります。
意味を与えるというより、意味をすでに与えたくてうずうずしていて、何か想起するものがあれば、ぱっと飛びついて持っていた意味をかぶせるといった感じがします。(わたしの場合)
意味を与えることをせずに周りを見渡すと、なんだかひとつひとつのものが語りかけているような気がしてきます。その姿は整っていて、実は美しいのではないかと思えます。
この世で愛の意味は、ゆるし以外にない。
わたしの意味づけには意味がないでしょうから、この世で唯一意味がある意味は愛の意味しかないということなのでしょう。
わたしが意味づけをしない時、浮かび上がってくるものは、ただ受け取るしかないものだという感じがします。わたしが作用しようとしていないので、ただ受け取るものとしてわたしが存在しており、その感受性が受け取るもの、それが愛なのかなと思います。
Takahiroさん、
ほんとうにそうですね。
自分の指一本と、ボールペン一本を目の前に並べてかざしてみて、「どちらも同じように意味がない」「どちらが折れてもかまわない」とは到底思えないわたしたちに、透き通る愛の美しさがわかるはずはないですね。(「愛なんて全部嘘っぱちじゃないのか!?」と反抗的だった高校生の頃のわたしの思いはあながち的外れではなかったわけです:)
だから、ホーリースピリットに祈る姿勢が生まれ、人の魂に頼む切実さが生まれ、そのとき、感受性の全体で、受け取るものがあるのですよね。
そのような思いと経験を同時代に共有してくださって、ありがとうございます。
かさき