あらゆるものを、あらゆる場所で、見わたしてみましょう。それを、今日一日のメインテーマにしましょう。一日中、暇さえあれば見わたし、ひとつひとつの形あるものを「見ている」自覚を得るのです。「わたしは今、形あるものを知覚している」と繰り返すことができたらもっと目的を明確にできるでしょう。
ひとつひとつに、少し、時間をかけて視線をあててみましょう。まず、自分の部屋やオフィスで、自分の持ちもの、と呼んでいるもののひとつひとつを見てみましょう。持ちもののそれぞれに、役割を与えているのがわかります。水を飲むためのコップとか、思い出を大切にするための写真とか。コップや写真が自分を支えているかのようです。外に出て、見わたしてみましょう。ちらついている雪を眺めましょう。空車のライトをつけたタクシーを見送りましょう。コンビニの明かりに視線をあてましょう。電車の窓から見えるもののひとつひとつに意識を向けましょう。電車に乗っている自分の身体、手にしている鞄、靴、それらを感じてみましょう。どれにも、役割を与えています。どれにも、感情移入があります。
そこにあるものは、自分で与えた役割だけです。
自分で作り上げた、支柱です。つまり、“自分を支えてくれるもの”です。
それが、さまざまな形をまとったものたちのすべてであって、その他の何ものでもありません。それらを、「わたしは今も、このように知覚している」「これもある」「あれもある」と、見て行きます。
すべてのものは、単に思いの投影で、ほかには何の意味もないということが理解できるなら、「何もいらない」ということも受け入れられるかもしれません。
わたしは、何もいらないはずなのに、なぜこれほどまでに“形”を増殖させているのだろう。
わたしの中のなにが“形”を作り続けているのだろう。
そう思いが動くかもしれません。そうなるなら、ミステリーは、自分の心のなかにあることが、見えてきます。
「わたしは、たった今、目にしているものを理解していません。
なぜなら、わたしは、自分の心を理解していないからです。」
つまり、何が源になっているかがわかっていない、なぜエゴが、この身体こそ大事だと言い張るのか、その根本的な理由がわかっていないということなのですね。
とくに思い入れがあるものが出てくるかもしれませんが、そのような感情は脇に置いて、他のものに対するのと同じように当てはめるよう心がけてみてください。(1)
イエスの思いやりは心に沁みますね。やさしいコメントが挟まれています。
自分の手と、壁にかかっている時計の間に何の違いもない、きれいな写真立てに入った祖母の写真と、京都の絵はがきの間に何の違いもない、ということを、ほんとうに受け入れたいという気持ちは育っています。「わたしが正しい!」という叫びを脇に置きたいという願いが芽生えています。それをするとき、心が晴れわたり、澄みわたり、未だかつて見ることのなかった”幸せの夢”の世界を見ることができるとわかっています。
今日のレッスンの目的は、過去と手を取り合い、過去の判断でいっぱいになっているあなたの心を澄みわたらせ、たった今、あなたの目の前に現れているものを正確に見ること、そしてそれらについて、あなたがほんの少しも理解していないことに気づく助けとなることです。(2)
「理解していない」ことを受け入れウレッスンは、「理解していないということを理解するレッスン」であると同時に、「今まで理解していなかったものをこれから理解していく。そのために今まで学んだことを取り消し、新しいことをまっさらな心で学び吸収していく、ということを受け入れるレッスン」です。
<質問> 取り消したい、手放したい、と願おうとしてみるとき、どんな抵抗が出てきますか? あるいは、どんな恐れが生まれるでしょうか?
いつも学びの機会を提供してくださり、ありがとうございます。
ところでこのレッスンの、最初のほうに
>一日中、暇さえあれば見わたし、
とあるのですが、
これはレッスンが2回目以降の場合、
「1日2回1分、それ以上やるべきではない」、
といったレッスンの指定回数・時間を守らなくてもよいということでしょうか?
既にレッスンの習慣がついていると、
1分どころか、時間さえあれば常にやりたい衝動には
かられるのですが・・・
sakura sakura さん、
ご質問ありがとうございます。
このガイドブックは、ワークブック・レッスンの「意味がわからなくていい。ただ指示に従っていなさい。指示以上のことはやらないでください」という基本から、大きく逸脱しています。ワークブックの指定回数などは、心の準備ができていないために遣り過ぎると「やめてしまう」「心の抵抗にむやみに抵抗することになってしまう」「レッスンが日々の儀式に堕してしまう」といった理由によります。でも、何度かワークをやってきて、心がオープンになってきたら、うんと深く学べるし、受け取れるのですね。このガイドでは、そのお手伝いをしたいと思っています。やりたいときはやる、抵抗が出てきたらそこでやめる、という、自分にやさしいやり方で歩いてください。どんなペースでやっていても、驚くことに、いつもわたしたちは一緒に歩いています。かさき
今日電車の窓を見ながら、このレッスンをやっていました。
電車の窓にわたしが与えた役割、外を見るという機能です。
わたしは、その機能があって初めて、窓の存在を許しているようです。
全てのものをそのように見ているのだと思います。
なぜなのか?
ものとものの価値の差異、優劣を見たいから、のように思われます。
そして、自分とその対象を分けて、孤立したものとして自分を際立たせたいから、なのではないでしょうか?(はっきりはわかりません。)
だとすると、このように世の中のものを見るたびに、自分が孤立しているという認識を強化していることとなりますね。
手放したい思いへの抵抗?
何だか、自分の一部が削られるような恐れが発生します。
手放す対象となるような様々な思いが、おそらく自分を形成していると認識しているため、思いを手放す=自分が減る、と感じているみたいです。こだわりを捨てて、自我を無くしたいという考えに真っ向から抵抗する思いが深く根付いているようです。
Takahiro さん、
書いてくださったこと、最初から最後まで、すべて、ほんとうにそのとおりですね。
最後の一行に、うなだれる代わりに、なーるほど〜! と膝を打って、快活に(笑)次のレッスンに移りたいですね。
ありがとうございます。
かさき
こんにちは、いつもありがとうございます。
「今まで学んだすべてを取り消すなんて、できない。これまでのすべてを否定することになる。今までの努力が全ていらないと言われているようだ。」と自我が大騒ぎしています。
私の自我は、これまでに学んできたこと経験してきたことが、私の価値だと思っているようです。
これらを手放すと、私のの価値がなくなるといって自我は慌てているようです。
取り消したい、手放したいなどと、私の自我は思っていないことがはっきりとわかります。
だからこそ、祈るしかないのだと、思います。
私にはどうしようもないと、どうすることもできないのだと、しみじみ感じます。
YUKIEさん。コメントありがとうございます。ほんとうですね。ただ、たとえば「できれば有機野菜を食べたい」「食品添加物は避けたい」という情報を取り消しなさい、とは言っていないので、大事にしていていいのですよね。ただ、「こうやって安全な食べ物を選んで買物をしている今、わたしは、自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、実はわかっていないわね」ということを思い出していたいですね。「だから教えてください。ほんとうにしたいと思っていることをさせてください」と祈りたいです。kasaki