このレッスンから、いよいよ心の内を見つめる練習が始まりました。たった今、心を占めている思いのひとつひとつを観察できる力をつけていきます。

心の“外側”に見ているものと、心の“内側”にあるものがまったく同じものであること、より正確に言うなら、外側に見えるものは、心にある思いの無意味さを映し出しているだけのものだということは、最初の一巡で、すでに学んできています。

良い、と判断している思いも、良くない、と判断している思いも、等しく観察できるように訓練していきます。

この練習のはじめには、良くない、と感じる思いを見つけると、それを、良い思いに変えたいという誘惑にかられるのではないでしょうか。そうしても結構ですが、その後で、「この思いにも何の意味もない」と自分に言うようにします。繰り返し、思いのすべてに、同じことを言い続けることで、観察する力が育っていきます。

 自分の思いを眺める訓練を進めていくと、良い、悪い、と呼べる思いはひとつもなく、どれもそれらが入り交じったものとしてとらえるようになるでしょう。これが、それらの思いに何の意味もない理由なのです。(1)

 少しばかりの明かりと、ぼんやりとした薄暗さ、というようなものはないのだとコースは教えています。まったき光を見るか、まったく光が見えないか、どのどちらかなのです。でも、わたしたちは、光と闇とそれらの中間のなかで生きていると思い込んでいて、その証拠として、ある程度の光、ある程度の闇を、交互に経験することが、生きてきた証、のようになっていました。
 そのように揺れ動く真実などありません。光源は、明るくなったり暗くなったりはしないのです。そこには、ディマースイッチなど存在しません。そのスイッチは、エゴの勘違いのなかにのみ現れるものです。

“良い”思いも“悪い”思いも、どちらも、あなたのほんとうの思いではなく、ほんとうの思いはそれらに覆い隠されているのです。“良い”思いは、その向こう側にあるものの影であって、それによって向こう側を見ることを難しくしています。(2)

この練習は、意味あるものから無意味なものを切り離すという目的に向かう第一歩だとも書かれています。意味あるものは形あるものにはない、ということを理解するためのものでもあり、何が同じもので何が違うものかを明確にしていくためのトレーニングでもある、とも書かれています。ホーリースピリットとともに見るものだけが、変化せず、従って真実であり、それ以外のさまざまな様態や思いはどれも同じもの、つまり幻想、無意味そのもの、なのでした。

このレッスンで大事なことは、ひとつひとつの“具体的な思い”をしっかり見ていくということです。「なんとはなしの思い」「抽象的な思い」を見るというのは、その思いをまっすぐ見ていることにはなりません。思いには必ず、具体的な形や出来事を伴います。

◯◯についてのこの思いには、何の意味もありません。

(この部屋に/この通りに/この場所に、など)あるものに何の意味もないのと同じです。

というように、具体的に挙げていきます。

それらの思いのすべてに意味はない、ということは、どの思いも、無意味というものを象徴しているという点で共通している、ということです。具体的な思いとは、個別のものを見ようとする意志によって作られています。変わりゆくもの、はかないもの、信頼できないものを見ようとすることから現れるイメージです。つまり、ホーリースピリットの思いに真っ向から対立しているものです。

心の力という実在を、無意味なものに摺り替えて使おうとしている、そして無意味な結果を見ている、ということを、繰り返し、平静な状態で思い出し、受け入れる練習が、今日のレッスンです。

<質問> 無意味とは認められない思いはありますか。「父に感謝している」「我が子が何よりも大事」「どうしてもこの夢は捨てたくない」「病から回復したい」等々。それらを“ダメ”と決めつけずに、書き出してみましょう。そのひとつひとつに「意味はないとはとても言えない」理由は何でしょうか? このレッスンには、「目的を失ってひとつの思いにはまりこむことを避けるには、あなたはまだ練習の経験が浅い...」(5)と書かれていますが、2巡目からは、思いの無意味さに気づきたいという意欲と共に、このエクササイズができるのではないでしょうか。